わたしたちは、我が国に生れて、そのふるさとに日々暮らしている。しかしそれが空気のように目に見えないものであればあるほど、そのあたりまえの存在を意識することはない。意識しないものには考えが及ばないから、そのよさもわるさも、なべて深い眠りにつかされている。
このふるさとは、あるとき突然に登場したものではない。それは古代の昔から、そして現代は近代が積み重ねてきたものの上に、成り立っている。わたしたちはその上に生きている。
現代にあって、世の中には多くの問題があるように見える。しかしそれらも、だから、そのよって立つところは前代、つまり我が国の歴史の中に求められる。先人たちが暮らしてきた事実の積み重ね、それが層を成すところがすなわちふるさとである。
近代日本の失敗の一つは、我が国の歴史を忘れようとし、また忘れ去り得たことにあった。前近代にあって、それは貧しくみすぼらしいものであったかもしれないが、人々は生きかたというものを確かに持っていた。だが過度の欧米崇拝に生き急いだ人々は、それらを前近代的だと決めつけ、葬り去ることで、新奇さというただ一点に追従していった。
そうした時代の雰囲気が余韻として響くなか、現代のわたしたちは、近代日本が成してきたものたちが、静かに溶け行く時代を生きている。
こうした現状認識のもと、わたしたちはふるさと文化研究会を結成した。これは、時の流れを止め、変化を拒む懐古趣味ではない。羽根つきや凧揚げは、村の中で子どもに遊ばれてこそかたちを成す。都市の博物館や美術館の中に納められ、あがめられ、そうして忘れ去られたものは死んだ文化でしかない。
しかしふるさとには、生きた文化がある。それはどうして生れ、いかに変化するのか、そしてなぜ変化するのか、よりよいふるさと文化のありかたを研究するのが目的である。
民俗学者の有賀喜左衞門は、『自分を忘れた田舎人はまた自分を取り戻さなければならない』と言った。手掛りは、わたしたち自らの内側にある。
だからわたしたちは、ふるさとにいま生きる人々と対話するところからところから、はじめたい。都市に画一的に流通し、大衆に消費される情報は文化ではない。どれほどささやかであったとしても、それにたずさわることで人々が満たされるもの、そうした試みをわたしたちは尊敬する。人々が今もって支持する生きかたのあらわれのなかに、多くのそれらを見つけ、また他の人々に伝えていくこと、それがわたしたちの使命である。
それらは、必ずしもよりよいものばかりではないかもしれない。また安易でお手軽な解決策を教えてくれるものでもなく、むしろ厳しく困難な問題を、次々に提起してくるであろう。しかしわたしたちは、それらに果敢に取り組みたいと思う。生きかたとは結果ではなく、生きようという意志が継続する過程でしかないのだから。
こうしたわたしたちのあゆみは、わずかなものであり続けるかもしれない。しかし湯王は『荀日新日日新又日新』と記した。これをわたしたちも自戒の言葉とし、よりよいふるさと文化を求め続けたい。
平成十三年三月三日
特定非営利活動法人ふるさと文化研究会